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火気厳禁の書斎

名は体を表す。です。

ヴァレンタイン・デイ

朝降っていた雪は雨に変わり、しとしとと公立高校に降り込む。僕は昨日買った「スプートニクの恋人」を開いてバスを待っていた。周りで同じ様にバスを待っている生徒の声。後ろの女生徒二人は文学好きらしく、源氏物語がどうだ江戸川乱歩がどうだと喋っている。二人はまるで小動物が寄り添うように囁き合っていた。京極夏彦の話題に切り替わったあたりから僕は本に集中するように意識を向けた。

『わたしはミュウを愛している。いうまでもなくこちら側のミュウを愛している。』

それから十分ほどだろうか。本を読んでいた。いわゆる耽溺した状態で、こんこんと本を読んでいた。

『それから月の光の下で、なにげなく自分の手のひらを眺めてみた。そして出し抜けに、それがもうぼくの手ではなくなっていることに気がついた。』

来たバスには沢山の人が載っていた。僕はあまり人の目を引きたく無いので、無理矢理にバスに乗り込むことはしなかった。少し逡巡した後にバスは諦めることにした。次のバスに乗れるという確証は無いし、バスに乗ってそのあと塾に行くのも面倒だった。携帯電話をかける。呼び出し音。「こちらは、エーユーお留守番電話…」。電話を切る。「クッソババアめ」。最小限の悪態。もう一度電話を掛ける。

「もしもし」

一度の呼び出し音で電話が繋がる。

「あのさ」

「バス凄い混んでて」

メールより電話のほうが早い。母の車で帰ることになった。そして僕はまた本を開く。

 

しかし僕の意識は、学生服の下に着た、ウィンドウブレイカーの左ポケットが気になっていた。そこには、明治のチョコと不二家の「カントリーマアム」「ホームパイ」、手作りと思われるクッキーが二枚、小さな四角いチョコ(メーカーは分からない)とクッキー(これも既成品かもしれない)のそれぞれ小袋が入っていた。僕は彼女達に思いを馳せてみる。少し頭のネジがゆるいあの子。ポニーテールを揺らしたあの子。顔は少々好みでは無いけれど、真っ白な脚を持った彼女。人のものになったあの子。眼鏡の奥の瞳を手に入れたい彼女。

 

二本目のバスが来た。僕は大人しく待っていればよかったと思った。でももう遅い。時は万人にとって平等に流れるのだ、仕方が無いのだ。村上春樹の小説は雨の中で読むのにはそれなりに適していた。僕は仕方無くそれを読んでいた。

『月の光はそこにあるあらゆる音をゆがめ、意味を洗い流し、心のゆくえを惑わせていた。』

雲が空いっぱいに満ちていた。送迎の車はせかせかと人を載せて去っていった。僕は恐らく来るはずの無い車を待っていた。

『ねえ、あなたはスプートニクというのがロシア語で何を意味するか知っている?それは英語で traveling companion という意味なのよ。』

『「旅の連れ」。』

『でもどうしてロシア人は、人工衛星にそんな奇妙な名前をつけたのかしら。ひとりぼっちでぐるぐると地球のまわりをまわっている、気の毒な金属のかたまりに過ぎないのにね』