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火気厳禁の書斎

名は体を表す。です。

少女が少女であるうちに

百合 小説 あすれつシリーズ

生きているこの体が惜しい。

考えるこの頭だけ、ここに有れば好い。

記憶も感情も何もかも取っ払って、思考したい。

嗚呼、暖かな感覚が脳に伝わってくるそのコンマ数秒が惜しい。

 

「先生」

云々言ってないで早く入れ。

マンションの自動ドアを開ける。

あの娘がエレベーターに乗っている間に、最後の仕上げに取り掛かる。

焼き上がったラザニアを二等分し、刻んだパセリを振りかける。

ナイフとフォーク。

曇り一つ無いように磨く。

水とグラス。

茜色のテーブルクロス。

そこでインターホンのチャイムが鳴る。

「入れ」

少しの間。

「お邪魔します…」

ベージュのピーコートに身を包んだ彼女が部屋に入って来る。

「いい匂い」

「まずはコートを脱いで手を洗え、ご飯はその後だ」

コートをハンガーに掛けさせ、シンクに水を流す音を聴きながら、私はワインの瓶を選ぶ。

1968年のボルドー

未成年には水。

ラザニアを盛った皿を並べると、「わあっ」と歓声が上がった。

「さあ、食べよう」

「頂きます」

二人の声が重なる。

ワインをグラスに注ぐ。

芳醇な香りが迸る。

ラザニアを食べる。

ワインを飲む。目の前の彼女はにこにことしている。

「先生、今日は有難う御座います」

「どうも」

「でもお前、泊まっていくつもりなんだろう?」

住所を知られたのはいつだろう。

押し掛けてくる程の行動力にはほとほと呆れるしかない。

にこにこ笑っているが、腹の底では私の煮え切らない態度に業を煮やしているかも。

ちょっと面白いな、と思っていると、彼女が口を開いた。

「先生、ほっぺにチーズ付いてますよ」

 

風呂。

しかしまあ、私もよくここまで許したものだ。

始まりは5月。

もう半年近く関係が続いている。

湯船の温度は微睡みに似て、堂々巡りの思考を加速させる。

「…はぁ」

視界は辛うじて世界を映す。

風呂上がり。

「入っていいぞ」

眼鏡を掛けると、やっと眼が機能を果たし始める。

テレビでは古い映画がやっていた。

「じゃあ失礼して」

浴室に向かう彼女を横目に捉えながら、テレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押す。

ターンテーブルにラフマニノフのピアノ協奏曲を載せ、針を落とす。

重厚な音の波。

時計の針は虚空を滑る。

シャワーの音。

 

「…何を」

何を考えているんだ私は。

 

「さあ、そろそろ寝るか」

午後十一時。

あすかは黄色のパジャマに着替え、眠たそうな眼をこすっている。

私は押入れから布団を出すと、彼女が「ああ、私がやりますから」と慌てて立ち上がる。

「座ってろ」

すぐに敷布団も掛け布団も枕も用意してやる。

「電気消すぞ」

真っ暗。

目を閉じる。

眠りにつく。

 

 

目が覚める。

ベッドサイドのランプと時計を確認すると、午前三時だった。

なんだか不思議な気分だ。

行ったり来たり、曖昧な気分。

朝とも夜ともつかない、今の時刻みたいな。

「…んん、せんせ…?」

あすかを起こしてしまった。

半開きの瞳。

長い睫毛。

真っ黒な髪。

するるとあすかが私に抱きつく。

「せんせい…」

小さな頭が肩に乗る。

ベッドの上、壁にもたれる格好で、二人は溶け合ったように縮こまっていた。

髪の匂い。

夜に咲く花の香り。

重さをすべて預けられた私は、ふと昔を思い出す。

 

 

私は、いつかこの子の前から消えなければいけない。

いつしか遠い思い出に風化してしまわなければいけない。

私みたいに、この子を傷つける訳にはいかないから。

笑って別れなければいけない。

私みたいに、この子が哀しむことがないように。

 

 

眠っている彼女の頭を撫でてやる。

本当なら、惜しみなく、貴女を独り占めしたいのに。

限りある時間。

でも。

戻れはしない。

一人はもう、たくさんなんだ。

でも私は、去るべきなんだ。

両の眼から静かに泪が落ちる。

気付かれないように、起こさないように、そっと息を呑んだ。