火気厳禁の書斎

名は体を表す。です。

威厳×純潔×無垢

「まーた怪我したのか」

先生の冷たい眼。

「ちょっと転んじゃって」

えへへ、と顔がほころぶ。

そんな私を見て、先生は余計に嫌な顔をする。

「ほら、早く見せてみろ」

「はあい」

救急箱の中から絆創膏と消毒液とガーゼ、慣れた手つきで取り出すと、「ここに座れ」と小さい回転椅子を指差す。

言われるままに座ると、私は膝の傷を見せる。

「どんな勢いで転んだのか知らんが、この程度ならわざわざ来なくてもいいぞ」

傷口に消毒液を垂らし、ガーゼで拭き取る。

先生の髪の匂いが鼻孔をくすぐる。

「で、でも血が出ちゃってて」

何故か急にどきどきしてしまう。うまく受け答え出来ない。

「…まあ、破傷風とかあるしな」

少し不服そうな声。

無防備に頭を差し出しているのには気付いていないようで、先生は絆創膏のフィルムを剥がす。

なんだか傅かれているようで、気持ちがムズムズする。どこかくずぐったい。

「よし、終わったぞ」

先生が絆創膏の上から傷口を撫でる。

「せんせ、ありがとうございます」

先生は手櫛で髪を少し整えると、「授業始まるぞ」といつものトーンで突き放した。

 

 

 

先生と私。

一方的に抱いていた想い。

あの日。

私が先生に「教育」を受けるようになった、あの日。

今も関係は続いている。

段々と、先生に近づいている。脈々と、心が繋がっていく気がする。

二人でいる時、私はただ「生徒」でしかない。

でも、それは、家にいると時の私でも、クラスにいる時の私でもない、「私」。

今日も保健室に行く。

私の「教室」へ。私の「楽園」へ。

 

蝉はその声を潜め、僅かなノイズとなって私の耳に入る。

「…先生、もう夏休みですね」

書き物をしていた先生は、ふと手を止めて私の方を見る。

「ああ。私に休みは無いがな」

少し緊張するが、思い切って話を切り出す。

「あの…先生」

「何だ」

口を開く。

「夏休み、私と、デートしてください」

間。

私はくっと唇を堅く結び、先生を見つめる。

「んー…、そうだな」

顎に手を当てて考える先生。

細い指、白い貝のような爪。

「嫌だ」

「えぇっ」

考えるより先に声が出ていた。

「何でですかぁ」

先生に近寄り擦り寄り、強くお願いする。

「ねえ先生」「行きましょうよー」

書き物の途中だった先生は眉間にそれはそれは深い皺を寄せ、「ああもう寄るなっ」とペンを持っていない方を腕を振るう。

「部活の連中が怪我したら面倒見ないといけないし、色々仕事があるんだ」

先生は紙に向かって喋る。

私は半分諦めながら、粘ってみる。

「でも、何日かは休みがあるんでしょう?」

先生はドライな表情を崩さないまま、「せいぜい一週間ってところだな、お前と会う為に使う日は一日も無いが」。

「先生ひどい!私達体だけの関係だったんですね!」

ぴたっ。

急に先生が作業を止めるので、私はそれ以上喋られなくなる。

「ほう…?悪いがお前から誘った様なものだけどな」

図星を突かれて動揺する。

「それは」

「先生が好きだからです」

顔が真っ赤になる。けど言う。

「…はあ」

机から顔を上げ、気怠そうに溜息をつかれる。

分かっていたとはいえ、結構ショックだ。

しかしまだ引かない。徹底抗戦あるのみ。

「課外授業、ってコトにしてですね」

『ってコト』って何だ。よく分からないけど言う。

「あああああああああしつこいっ」

ペンを机に叩きつけながら勢い良く起立する先生。

「行けばいいんだろっ行けばっ」

吐き捨てるように言う。

「やったあ!先生のお休みっていつですか!?」

ぎろり。

眼鏡越しに容赦の無い視線攻撃を浴びせてくる。怖い。

「誰も休みが確実にあるとは言ってないぞ。わかったな」

「はあいっ」

心に羽が生えたようにうきうきと気持ちが舞い上がる。

「じゃあせんせ、お休み取れたら私に言って下さいねっ」

弾む声。先生は立ち上がったついでに一つ大きな伸びをしてから、「今日はもう帰れ」と私に言う。

時計を見ると、針はもう「6」の上を掠めて進んでいる。

「わわっ、もうこんな時間」

私は荷物を取ると、駆け足で戸を開けて、振り返って「さようなら」と言った。

 

 

 

電車を出ると、八月の熱が皮膚を焦がした。

小さな鞄に仕舞った切符を出して、あの人に逢いに行く。

足が軽い。逸る気持ちを抑えて改札を抜ければ、待ち合わせの場所に先生はいない。

手首に巻いた小さな時計を見る。一時十二分。

少し早く来すぎたかな。

待ち合わせの時間は一時半。

先生は「私が絶対に来るなんて思わないことだな」と、あの不服そうな顔で言っていたけれど、先生はきっと来るだろう。

今日は先生とのデートだ。二人っきりのデート。

昨日はあまり眠れなかった…、待ち合わせの時間を午後にしておいて本当に良かったと思う。

そんなことを考えている内に、どこからか先生がやって来ていた。

「おい、森永」

急に聞き馴染みのある声が鼓膜を揺さぶり、振り返るとそこには想い人が居た。

「先生、来てくれたんですねっ」

本当は来たくなかったんだと言わんばかりの刺々しい視線。

歩き出す私。ゆっくり付いて来る先生。

底の厚いサンダルでタイルを踏みつけながら、駅近く、用事のあるところまで歩いていく。

「本屋か」

正面のガラスのドアを、先生が通るまで押し続けながら、先生の言葉を聞く。

「ちょっと欲しい本がありまして」

えへへ、と笑ってみせる。

「文庫本か?私も買おうかな」

棚と棚を抜けて、表紙の雰囲気を感じながら、恋人との逢瀬を愉しむ。

階を上がって文庫書籍のコーナーに入る。

先生は「何を探してるんだ?」と話し掛けてくる。こういう所は先生っぽい。

「えーと、『若きウェルテルの悩み』を」

私の曖昧な記憶で答える。「合ってるかかどうか分かんないですけど」

ゲーテか」

岩波文庫』の棚を探せ、と先生が言う。

誰も居ない。二人っきりだ。

静かな店内の小路を歩けば、目当ての文庫の棚が見つかった。

「うわぁ…」

見てみると、小難しそうなタイトルの本が並んでいる。

方法序説」「ソクラテスの弁明」「社会契約論」。

私は少し不安になりながらも、「か行の作家」からゲーテを探す。

「あれー?」

隣に立っていた先生が指で指し示す先を見ると、「若きウェルテルの悩み」が並んでいた。

「あ、ありがとうございます」

先生はもう自分の欲しい本を探しているようだ。

「せんせ、何探してるんですか」

「ちょっとな」

本棚の上から下まで見ている。「探すの手伝いましょうか」、私は声を掛けてみる。

「いや、今見つかった」

先生が手にとったのは「存在と時間」だった。

「なんですかそれ」

「分からんで良い」

レジに向かう。

お財布を確認する。

「!?」

お金が入ってない。入ってない。入ってない。

どこを見ても入ってない。

「先生…」

ふと視線をこちらに移す先生。

「本貸せ」

ぱっと本を取って、ちょうど空いたレジに入る。

手早く会計を済ませ、先生が戻ってきた。

「ほら」

袋から「若きウェルテルの悩み」を取り出し、こちらに手渡す。

「良いんですか?私、後でお金を」

「いいよ、別に」

先生は鬱陶しそうに首を振る。

「でも」「いいから」

私は本を鞄に仕舞って、先に店を出た先生を追い掛ける。

時計を見ると、二時七分を示していた。

「せんせ、待って下さいよお」

「どこに行くんですかあ」

先生は歩を止めない。

しばらく歩くと、開けた公園に出ていた。

空は真っ青で、雲はまばらに青の中を泳いでいる。

だだっ広いこの公園は、なんだか世界の果てのような気がした。

 

「先生?」

「何だ」

「隣、座っていいですか?」

「ああ」

「じゃ、失礼して」

「…あまり近寄るな、暑苦しい」

「ごめんなさい、でも離れたくないです」

「私が離れるからいいか」

「あー!もっと近寄っちゃいますよっ」

「あっつい」

「うふふ」

 

 

気が付くと、辺りは薄暮の風が吹いている。

横を見ると、先生が難しい顔をして本を読んでいた。

「わわっ」

先生の肩に寄りかかって熟睡してしまっていた。

「…重かったぞ」

本を閉じ、立ち上がりながら先生は言う。

私も慌てて立ち上がって、「そろそろ帰ります」と精一杯の笑顔を作ってみせた。

 

 

 

帰りの電車の中で、私は思う。

恋人。

先生は、私を好意的に見てくれているだろうか。

私の心はもはや、先生のものなのに、先生はそれを分かってはくれない。

先生の気持ちは、私の心の外にある。

それが辛くて、辛くて―――――。

課外授業の結果、まだ私は、本当に好きな貴女のこと、理解できませんでした。

どうか、どうか、補習させて下さい。