火気厳禁の書斎

名は体を表す。です。

ウネ貴公子とカリソメ乙女 前編

閉ざされた季節が、この東京にもやって来る。

貴公子はアスファルトを踏みしめて征く。

先手必勝、夜会服から取り出した拳銃の、その頼りなげな引き金に指を掛ける。

躊躇いも逡巡も捨てた。

暗い道には、もう誰も居なかった。

 

 

 

日本には五日前、いつものプライベート・ジェットではない英国製の飛行機で入国した。

自分の物ではないパスポートと、9mmの銃弾と拳銃を携えて、だ。

『伊反裁音(いたんさいね)』。

諜報局に呼ばれた貴公子はその名を確かに聞いた。

「この任務を遂行してもらいたい」

「勿論、君にはこの『殺人許可証』を与える」

殺人許可証。

任務中の殺人は罪に問われないというライセンス。

「じゃあ、頑張ってくれたまえ。007」

 

 

 

異端。

忌憚。

まるで奇譚のような人間が、この東京からイギリスへ向かっているらしい。

彼女はテロリストではない。

彼女はエージェントでもない。

しかし彼女は、フリーランスの殺し屋だったのだ。

『新生ソヴィエト連邦』。

社会主義の再興を目指す国際組織だ。

彼女はその組織からの依頼で、英国の要人を暗殺する予定だそうだ。

 

夜の帳が開く。

雲間から差し込む光は、平和を暗示するような透明さを持って網膜に貼り付く。

烏は宴の後を狙って、街へ急降下する。

さながら刺客のように。

貴公子はネクタイを緩め、朝を享受するサラリーマンに擬態する。

東京に来て既に三日、未だ伊反の情報を掴めないでいる。

「M」と名乗る諜報局の男からは、現地で組織に潜入している他のエージェントから詳しい情報が与えられると聞いているのだが、まったく音沙汰が無い。

鉛の様な体を引きずって、最寄りの駅へ歩く。

監視カメラには映らない。

カメラに映る反射光を吸収する、特殊な磁場を発生させる端末のスイッチをオンにしているので、人間の目には見えてもカメラにはまったく見えていない。

改札を抜けて車両を待つ。

『黄色い線までお下がりください』。

そろそろ到着の時間だ、と思った瞬間に、足元に何かを感じた。

一枚の磁気カード。

裏には「新宿駅の裏通り、三回角を曲がった公衆電話で使って」と書いてある。

 

地下鉄。

陰鬱な闇の中を進む。

陰惨な過去を遡る。

貴公子はちらりと周りを見る。

携帯を弄る若者。

本を読む老人。

ビニール袋と傘は見当たらなかった。

 

ホテルの最寄り駅より先の駅で降りる。

新宿駅の裏通り、三回角を曲がったその公衆電話。

今は急ぐしか無い。

急ぐべきなのだ。

夜会服のポケットからカードを取り出す。

目当ての公衆電話はもう見えている。

箱に体ごと入り、古ぼけた深緑の電話にカードを差し込む。

小さな赤いランプが点く。

受話器を取ると、加工された声がこちらに語りかける。

「007。聞こえてる?」

慌てて「ああ」と返事すると、貴公子は二の句を継いだ。

「君が、例の潜入中のエージェントだな?」

「ええ。私の事は『臙脂紫』と呼んで下さい」

エンジムラサキ。

声の主はどうやら女性のようだ。

「では、今後の任務を」

淡々とした口調。

「貴方は今日の日本時間午後九時に再びここへ来て下さい、そこから私と行動を取ります」

「特に伝えるべき情報は無いと思いますが…何かありますか?」

「いや、特に」

「では、今夜九時に」

電話が切られた。

 

駅に戻る。

貴公子は無用な行動を避けるため、ホテルへ戻る。

携帯には二件の着信がある。

「title:無題」。

「M」からだ。

メールを開いてみると、二件とも任務の詳細が載っていた。

『今現在、組織に潜入中のエージェントが少々コンタクトを取り辛くなっている』

『君の日本入りは「新生ソヴィエト」にまだ知られていない。彼女と連絡が取れるまでは大人しくしていてくれ』

と記してあった。

まったくもって手持ち無沙汰である。

窓から都会を眺める。

人の群れ、車、鮮やかな広告。

東京。

もう街は夜の機能から、昼の機能へと移行した。

自室の固定電話が鳴る。

唐突に空気を切り裂くそれは、貴公子の心臓の音を加速させてゆく。

恐る恐る受話器を取る。

どうせフロントからだろう。

ガチャリ。

「私よ。今すぐ窓から離れて。早く!」

窓を振り返ると或る物体がこちらへ飛んでくる。

貴公子は身を伏せ、ガラスの破片を避ける。

頭を持ち上げると、真横には銀色の矢が刺さっていた。

受話器を再び耳に当てる。

「今すぐそこから離れて。私もすぐに追いつく」

「わかった」

貴公子は続く二本目の矢を察知すると、部屋のドアをくぐった。

 

 

 

「生還せよ、昇天せよ」

伊反裁音は鼻歌交じりに闊歩する。

彼女はまだ仕事を済ませた訳ではない。

しかし、自分が置かれた状況は理解している。

理解しすぎる程に理解している。

少なくとも今の「主人」はソヴィエトなのだ。

頭数を使ってでも彼らを仕留めたいのは解ってる。

でも、ワタクシ、淑女なんかじゃないのよ?

 

 

 

ホテルから出ると、警察車両と野次馬が群がっていた。

恐らく飛ぶ矢と割れる窓を見て通報した者がいたのだろう。

瞬間、貴公子の腕が掴まれる。

「行くわよ、振り返らないで」

それは確かに電話で二度聞いた声だった。

肩にかかる黒髪。

白い手に引かれながら、貴公子は得体の知れない感情を持て余していた。

往々にして行く道は茨の道。

手を引く彼女はさながら剣を携えた勇者だ。

路地を曲がり、更に奥の路地へ。

走る。

駆ける。

薄汚い都市の暗部へ。

闇へ。

息も切れ切れ、二人はやっと立ち止まった。

「ここまで、来れば、大丈夫」