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火気厳禁の書斎

名は体を表す。です。

ウネ貴公子と緑茶亭の住人 前編

貴公子の朝は早い。

手早く着替えを済ませ、各国の新聞に目を通す。

スリランカから取り寄せたセイロンの香りを愉しみつつ、昨日の知識を更新する。

丁度「タイムズ」紙を読み終えた頃、ジリリリリリと電話が鳴った。

少し億劫そうに受話器を取る。

「もしもし」

「大変です坊ちゃん」

声の主は爺やだった。

「どうしたんだい爺や?」

「『二十世紀の奇跡』が無くなりました」

貴公子は深く息を吐く。

やれやれ、せっかくの紅茶が冷めてしまうじゃないか。

 

 

 

プライベート・ジェットの中で、貴公子は今までの情報をまとめる。

本宅こと、「緑茶亭」は今、主である貴公子が不在であったこと。

曽祖父母の代から伝わる絵画、『二十世紀の奇跡』が無くなったのが今朝メイドが掃除している時に発見されたこと。

『二十世紀の奇跡』はかの画家、ドドネルコ・モフーヅによって1943年に書かれた絵画。

戦時中に書かれた絵だけあって、その内容は民衆が独裁者を磔にするものである。

掃除のメイドの証言によると昨日の時点では『二十世紀の奇跡』は確かにそこにあったらしい。

今本宅にいるのは爺やとメイド五人とコック三人。

空の景色を見ている余裕も無く、ジェットはもうトルコ上空に達していた。

 

英国。

空港に降り立つと、控えていたシークレットサービスの男二人に先導されて迎えの車まで歩く。

ドアマンが後部座席のドアを開け、「ありがとう」と言い車に乗り込む。

「お待ちしておりましたぞ、坊っちゃん

「爺や、久しぶりだな」

「ええ、まったく」

貴公子を乗せたリムジンは本宅のあるコッツウォルズを目指して走り出していた。

コッツウォルズ。

美しい山々と見目麗しい緑の地。

「緑茶亭」の名前は貴公子がつけたものだが、それは庭の木々の色が日本的で安らぎを覚えたからだという。

その邸宅は貴公子の祖父母が彼にプレゼントしたものだった。

流れていく都市。

幹線道路M25に沿って進む。

しばらく爺やと四方山話をし、車はコッツウォルズの緑茶亭に着く。

助手席に座っていたドアマンがいつの間にかこちら側のドアを開け、貴公子の眼前に懐かしい記憶がちらつく。

「さあ、参りましょう」

「ああ」

庭を横目で眺めながら、分厚い扉に向かう。

木目が美しいその扉が使用人に開かれる。

坊っちゃん、いかがなさいましょう?」

貴公子は少し考えた後、

「爺やももう眠たいだろう?捜査は明日からにするよ」

日本とイギリスとの時差は九時間。

貴公子は時差ボケを防ぐ目的でも、早く眠りに就きたかった。

「では、お部屋まで案内いたしましょう」

燭台の明かりの中を進む。

「こちらです」

爺やはどこからか部屋の鍵を取り出し、「これは坊っちゃんが預かっておいて下さい」と鍵を貴公子に渡す。

「では、私めは控えさせて頂きます」

「ああ、おやすみ」

「お休みなさいませ、坊っちゃん

バタン。

ドアが閉まる。

シャワーを浴びながら、貴公子は違和感を感じていることに気付く。

もともとこの緑茶亭のこの部屋――部屋と言ってもバー・カウンターまで完備されているが――は、貴公子の部屋であり、違和感の覚えるはずがない。

何故だ?

もやもやした気持ちを抱えたまま、バスローブを羽織って冷えた水をグラスに注いだ。

そのグラスを持つと、貴公子は不審感を振り払うように水をぐっと呷った。

 

静かな光がコッツウォルズを包む。

瀟洒な風は新しい日々の匂いを運び、小鳥の囀りは人々に目覚めを告げる。

ベッドから上体を起こして時計を見る。

短い針は「8」、長い針は「4」を指している。

瞼に張り付く眠気を払うため、手を伸ばしてカーテンを引く。

そのまま立ち上がって、シャワーを浴びることにした。

昨日感じた違和感。

その正体が未だ掴めないまま、貴公子は身なりを整える。

部屋を出て、しっかりと鍵をかけて食堂へ向かう。

「おはようございます、ウネ様」

食堂に居たのは掃除中のメイドだった。

「朝食、作ってもらえるかな」

「かしこまりました、シェフを呼んで参ります」

小柄な体をひょこひょこと揺らしながら、メイドはどこかへ消えた。

新聞も取ってくるように言っておけば良かったな、と後悔しつつ少し歩きまわる。

爺やはどこへ行ったのだろうか。

すると、さっきのメイドが戻ってきた。

「朝食は大体二十分ぐらいで出来るそうなので、散歩でもいかがでしょうか?」

逡巡。

「そうだな、『二十世紀の奇跡』について聞かせてくれるかい?」

小柄なメイドは目を丸くして、コクンと頷いた。

「私が見つけたわけではないんですけど、昨日の夜に応接間に入った子がいるんです。それでなくなってるのがわかって」

「夜というのは大体何時頃?」

「えーと、十時頃だったと思います。執務長の指示で行ったそうですけど」

「爺や…?」

執務長というのはこの家の使用人の長、爺やのことだ。

「他に変わったことは?」

「特に無かったように思います。毎日決められた手順で作業するだけなので」

さも当たり前の如くそう答えた彼女は、次の質問を犬をように黙って待っていた。

「…もういい、仕事に戻ってくれ」

「かしこまりました、御主人様」

一礼し、洗練されているが豪奢ではないエプロンドレスを翻してメイドはどこかへ行ってしまった。

少しの間をおいて、シェフ長が朝食を運んできた。

「おはようございます、御主人様」

「ああ、今日の朝食は?」

「こちらです」

シェフ長は押してきたカートから食器、クロシュが載った皿を丁寧に取り出し、クロシュを持ち上げる。

「今日の朝食は、イギリス風目玉焼き、焼きトマト、プレーンのスコーンで御座います」

「いただきます」

ナイフとフォークでの食事は慣れたものだった。

イギリスの料理には味が付いていない。

スコーンと塩をふりかけたトマトを口に入れると、果肉からは目の覚めるような酸味が溢れる。

目玉焼きは黄身まで火が通り、イギリス風の名に違わぬその食感が懐かしい。

しかし、貴公子は昨日からの『違和感』の所為でうまく咀嚼できなかった。

口に残る残滓を水で流し込む。

「美味しかった。ありがとう」

「恐縮で御座います」

「御主人様、この後はどちらへ…?」

「ん、そうだな」

まったく考えてなかった。

爺やと絵画の失踪を目撃したメイドに話を聞くのが優先か。

とりあえず爺やに話を聞こう。

「爺やが今何処にいるかわかるかな?」

「わかりかねます」

「じゃあ、まず探すかな」

椅子を引こうとするシェフ長を手で制し、立ち上がって食堂を出た。

 

この屋敷は広い。

建物の中は地上二階、地下一階から構成され、一階にはロビー、広間、食堂、図書館とテラスがある。

二階は貴公子の書斎、使用人達の為の小部屋と客人の為の寝室によって構成されており、爺やは恐らく図書館にいるだろうと推測できた。

ロビーを通って図書館へ向かう。

書架は連峰のように聳え立ち、並ぶ背表紙の革の色は木々の葉を思わせた。

棚と棚の間を早足で歩く。

坊っちゃん、どうなされたので?」

一人掛けのソファに腰掛けた爺やは、手にした「ゲーテ詩集」に栞を挟んでこちらを見た。

「爺や、絵画の件について聞かせてくれ」

爺やはにこっとした顔で「ええ、かしこまりました」と言う。

「無くなった日に何か不審な事は?」

「特にありませんでしたね」

「その日来客は?」

「お客様はおられませんでした」

「誰か外出した者は?」

「おりません」

「わかった、部屋はそのままにしてあるな?」

「はい、確かに」

「案内してくれ」

「かしこまりました」

恭しく一礼すると踵を返し、ゲーテの詩集を書棚に戻すと、靴の音を響かせながら本館へ戻った。

 

貴公子は確信していた。

屋敷の中に犯人がいることを。

しかし貴公子は焦らない。

なんと冷静に状況を洗い出してみせるのだ。

まず、事件が起こったのは昨日の夕方。

恐らく五時、六時頃であろう。

第一発見者はメイド。

場所は『二十世紀の奇跡』が飾ってある一階広間であろう。

誰も屋敷には入っていないし、出て行ってもいない。

犯人はこの中にいる。

その事実は、冷たいナイフの刃のように貴公子の胸に深く突き刺さった。